好きなドラマは多いが、最も印象に残っているのはトッケビ

良い箇所を数えたらキリがない。練られたストーリー、魅力的なキャラクター、視聴者を引き込む俳優たちの演技、撮影の美しさ、劇中歌の効果。どれをとっても一級品で、視聴後の冬はロングコートを買い込んだりした。その後、韓国ドラマを何本か続けて見て、最近でも話題作がある度にチェックはしているが、どれもトッケビを超えてこない。

トッケビが初めて私が観た韓国ドラマだったことが、これほどまでに歪んだ判定を生んでいると考えられる。トッケビも否定的な目で見るとツッコミどころは沢山あるし、そもそも設定が陳腐だろう。ただ、初見の私にはそんな感性はなかった。それは、後から生まれてきたものだ。だから、その後に観た他の作品には、インパクトを受ける前に相対評価をすることとなり、その印象は薄まった。

程度は浅いが、オタク化することによって感性が鈍ったのだろう。良いものを正しく受け取るのに、知識や経験は役に立つ。しかし、新しいものと出会う時、知識や経験を捨て去って向き合う勇気が必要なのだろう。

時短料理は食の楽しみを省略しているのでは

料理が好きな立場からの意見であり、言い古されたことかもしれないが、食の楽しさには作る面と食べる面がある(もう少しブレイクダウンすると、材料を育て、採取し、献立とレシピを考え、調理し、食べる、が一連)。これら全てを一人で行うことは現実的ではないが、それにしても最後の食べる部分だけがフォーカスされ過ぎているように感じる。料理は苦痛であるから、なるべく時間をかけないようにとの考えを出発点に、時短レシピが生まれる。効率化は悪い考えではないが、料理の楽しさも同時に損なわれていることに気づくべきだろう。

作る楽しさが完全に失われた食事は、外食だ。多くお金を払えば美味しいものが食べられ、安い店ではそれなりのものが出てくる。意外性はない。又、メニューの選択権も与えられているようで与えられていない。店の都合の定食やコースをただ受け取るだけである。楽しさは人から与えられるものではなく、自分で生み出し、発見するものだろう。

雨の日は嫌いだが、強烈に嫌いというほどでもない

雨の日はできて晴れの日にはできないということはほぼないのではないだろうか。反対に、雨の日は出来ることが制限される。洗濯物は干せないし、散歩も出来ない。どうしても外に出ないといけない時は、衣服靴が濡れ、寒い時は更に寒く、暑い時は更に暑くなる。

とはいえ、職業のおかげもあるのかもしれないが、雨の弊害を常にダイレクトに受ける訳ではない。外出したくない時はしなくて良いし、なるべく濡れない諸々の手段も講じることができる。ちょっと不便だなという程度だ。

昔の人(敢えて曖昧)は天候に左右され、半ば諦めながらも、うまく順応しながら生き延びてきたのだ。そういう環境を受け入れるしかなかったとはいえ、現代人から見れば凄まじい。きっと現代の私たちも、遠い未来から見れば、大変な不便を被りながらもしぶとく生きているように見えるのだろう。

三国志は何故何度読んでも面白いのか

三国志が面白いのは当然だ。要素分解するまでもない。あらゆるエンタメ性のオンパレードだ。でなければ未だにこれほど読まれていないだろう。名作とは須くそういうものなのだろう。

問題は、何故何度読んでも面白いのかだ。三国志である必要はない。たまたま私が今読んでいるのが北方謙三氏の三国志であり、過去たしか2回他のバージョンを読んだことがあるからだ。もちろん、面白かったから再読しているのだが、今回も面白い。

他のバージョンのディテールはとうに忘れているので、比較して楽しんでいる訳ではない。だが粗筋は頭に入っているので展開に新鮮味はない。なのに面白い。

期待通りにことが運ぶのが、痛快なのだろう。これは落語などでもそうだが、お約束のパターンが来たら嬉しくなって"待ってました"と喝采してしまう日本人の特性なのだろうか。

犬がボール遊びのような単調な活動に興奮しているのを見ると、なんと阿保なのだろうとたまに思うが、自分にも似たようなところがあるなと気付かされる。三国志の名シーンに興奮している時、尻尾があれば、激しく振っていただろう。

ただ、犬より少しは賢明な私は、繰り返しに飽きる能力もある。5分間の音楽や、8分間のYouTube動画は手軽な娯楽として手が届きやすく、繰り返し何度も再生できるが、その分飽きるまでのサイクルも短い。三国志の、一生に何度も読んでいられないボリューム感も、その人気の延命に寄与しているのだろうか。

ドラゴンボールで生き返った人は、生前と同じ個人と認められるだろうか

同じような話題が続く。

たしかあの作品の世界観では死後も魂はどこかにいて、擬似肉体的なものを持って修行したりして、運が良ければまた生き返ってくる。その時は擬似肉体にあった天使の輪的なものが取れて、生きた人間に戻る、という感じだったはず。フィクションにはフィクションの論理があり、説明されない部分も含めて納得して楽しむのが、読者のあるべき態度だろう。

問題は、似たような、亡くなった個人を再生するシステムがあったとして、生き返った後の人は、生前(ややこしいが)の人と同じ人間なのだろうか、ということだ。

同じ体を持っていればいいのか?クローンは同じ体ということになるが、生きていれば体なんて日ごとに変わる。

同じ記憶を持っていればいいのか?脳の記憶をストックしておくメモリ半導体は技術的に可能になる気がする。ただ、ナチュラルな脳はしばしば記憶を削除するし、記憶していても思い出せないものは沢山ある。

同じ思考パターンを持っていればいいのか?これも人工知能でトレース出来そうだが、それぞれゆらぎのある思考をどのように同じと判断するのか、難しそうだ。

ドラゴンボールの世界で生き返った人は、朝眠りから目覚めたかのように自然に2度目の現世を体験しているように見える。果たして、明日目覚めた私は、今日と同じ私だろうか。

銭湯に行っても人の個性は分からない

前項と反対の内容になるが、これは肉体的個性ではなく精神的個性の話だ。精神という言葉も掴みどころがないから、思考の多様性としましょう。

実際他人の頭の中を覗くことは出来ないが、とても多様な思考パターンがあるように思う。肉体的特徴とは比較ができない程度だろう。ここまでずっと当たり前のことを言っている。

肉体的個性と同様に思考もある種の共通部分がある。肉体の場合、それは主に遺伝によるものだろう。日本人の食文化が欧米化しても、アメリカ人のような身体にはならないし、そもそも同じアメリカ人でも人種によって外見は全く異なる。

一方、思考はnatureよりnurtureの中で共通パターンが形成されていく。社会化され、型にはまったことを考えるようになっていく。とはいえその中でも驚くほどの多様性が観察される。

ネットは様々な人の思考に触れる良いツールのはずだか、そうでもなくなってきているように見える。わざわざネット上で発信をするのはある事のファンかアンチかであり、興味のない人は他の事に熱狂しているのだろう。又、その意見は(肯定であれ否定であれ)単調なことが多い。色々な思いをそれぞれ持っているのだろうが、言語化が難しいと、既に誰かが言語化した自分と近い主張の転載でお茶を濁してしまうのだろうか。

銭湯に行くと人の個性が分かる

骨格と肉付き、体毛がひとによってこうも違うものかと驚く。同じ日本人とは言え、知らないところで生まれ育った知らない世代ばかりなのだから、当然ではあるのだろう。

社会が個人の個性を殺している、という論旨も多いが、群れで生活する野生動物の方がよっぽど外見的個性がないだろう。少なくとも素人目にはそう見える。生活と食事とが同じだと、最適化されたフォルムに収斂されるのだろうか。

社会において人は個性を求められたり求められなかったりする。職場でも学校でも、建前では個性を求めるが、本音では無個性が期待されているのだろう。だから髪型や服の色なんかで少し個性を出してみる、という中途半端なやり方に落ち着く。

人前で服を取っ払って個性を出せとは言わないが、それくらいひとそれぞれ個性的な部分を懐に持っていると知っていてもいいのではないか。