どう思う?と聞かれる時は大抵何も思っていない

職場や家庭や、様々なところで同様の問いかけがある。僕が黙り込んでいるのに気を遣って話を振ってくれているのだろうか。単に、間が持たないから何か話せよと促されているだけかも知れない。

質問がぼんやりしている為、ぼんやりした答えをグダグダと返すのだが、それで納得を得られているのかはさっぱり分からない。皆、普段からそんなに色々と思っているのだろうか。

どう感じる?であればまだ答えやすい。感覚なんぞそもそもまとまっていないのだから、適当に答えれば良い。

又、どう考える?も答えやすい。考えがまとまっているのであればそれを話すのみであるし、時期尚早の場合は考えるにはまだデータが不足していますねとでも返せば、議論の足しにはなるだろう。

他人に恋心を告白することを思いを伝えると言うが、あれも気持ちと考えを言葉で伝えていると言えるだろう。思いは表情や振る舞いから観察され、解釈されるものだと思う。

洗浄力1.5倍などと書いてあるが何と比べてなのだろうか

紛れもなくその会社が製造販売していた従来品との比較なのだろうが、洗浄力という漠然とした力を実感したことがほとんど無いためピンとこない。従来品では手を抜いていたのか?と疑いたくなるし、どうせすぐに当社比3倍くらいの何かが発売されるだろうとも考えてしまう。実際、企業努力によって技術が進歩しているのだろうが、基準を持たない一般人には残念ながら凄さが伝わらない。

日常会話でよく使われる言葉に、"割と"がある。僕はこれをなるべく使わないようにしている。ある時友人が割と〜と話しているのを聞いて、何と比較しての割となのだろうと気になってから、自分でも使えなくなってしまった。

これは僕の気にしすぎで、"割と"は"それなりに"くらいの意味合いで使われているに過ぎない。割と好きは、それなりに好きといった塩梅だ。この時、わざわざ割とをつける意味もわからないのだが、単に癖や弾みなのだろう。物事に対する評価は相対ではなく絶対でいたいものだ。絶対的に好き、という言葉を日常会話で聞いたことは全くないが。

 

異常気象と地球温暖化を関連づけた報道が少なすぎやしないか

北米のニューヨーク州で洪水があったようだ。道路やアパートメントの中が浸っている映像が山のように投稿されていた。カリフォルニアでは山火事が年々酷くなっていくし、今年はヨーロッパや中国でも大規模な洪水があった。それらのニュースは英語のメディアを通して知るのだが、地球温暖化との関連がコメントされていることが多いように観察される。

一方、日本のニュースではそのような関連づけがされているところを見たことがない。被害の状況、被災者へのインタビュー、災害時の適切な行動の呼びかけ、あたりだろうか。

そもそも、ニュース制作者が地球温暖化との関連性を知らないという可能性も否めないが、日本人の自然観がそうさせているのではないだろうか。つまり、自然は豊かさも厳しさも与えてくる、人智の及ばないアンコントローラブルなものである、という考えだ。結果として、課題解決ではなく対症療法的な避難を選択し続けることとなっている。予測不能地震や宇宙人襲来と、科学的な対処可能性のある気候問題をいっしょくたにしてしまっている。

自然を観察し、抽象的に思考し、自然科学を発達させた欧州とは大違いである。科学は輸入され、人材も育っているはずなのだが、精神性は、災害が起こったら寺を建立して人徳を評価されていた時代から変わっていないのだろうか。聖武天皇ディスではない。

過去の言動は言動はいつまで許されないのか

東京オリンピックの開会式演出メンバーが、直前になって過去の言動が問題視されたことによって更迭(辞任?)されたことは記憶に新しい。その言動の態度の悪さ、その後の対応有無、その人の現在のイメージ等々からネット上でのバッシングは大いに盛り上がっていたように見えた。デジタルタトゥーがいつまでも残るインターネット社会においては、同様の事例は今後も多発するだろう。

しかし、人は成長する。成長とは言えなくても、時と共に老化し、思考も少なからず変化する。ログに残された過去の情報を以って、人のことを批判することは可能なのだろうか?この問いは個人はどのように同定されるかという問題につながる。身体の細胞は絶えず入れ替わり、精神はそもそも捉えることすら難しい。例えば、差別的問題発言をした彼が記憶を喪失し、精神がリセットされた場合、彼を糾弾し何らかの責任を取らせることは出来るだろうか?

国家の場合は事情が異なるが、類似する点も多い。まず、国民がある時点で総入れ替えになる。又、国家の精神など誰も知らない。個人と異なるのは記憶(歴史)が広く共有され、研究されていることだろう。(それすら解釈のバラツキがあるが。)

身近な例では、恋人との喧嘩で、謝罪済みの過去の失態を何度も持ち出されるというケースが分かりやすいだろう。だいたい反省の不足を指摘されるのだが、近しい恋人に対してでも、ミスなく学び、反省の意を示し続けることは難しいということだ。いわんやネット上の見知らぬ人に対してをや、である。

ソーシャルディスタンスをソーシャルと略す人

ソーシャルと人に言われて何のことだか理解が遅れた。ソーシャルディスタンスのことを指しているようだった。

パーマネントウェーブをパーマと略し、エレクトリックギターをエレキと略す日本人ならではの感覚なのかも知れない。(アコースティックギターはアコギなのに。)略語を作る際に何故か修飾語の方を残してしまう癖があるのか、単に前にあるブロックを残してしまうのかは分からないが、本来の意味が抜け落ちていることに変わりはない。ジョークで略語を作る時にわざとそうしてみると面白いかもしれない。

漢字ではそのような例はあまりないのではなかろうか、と書きかけて、そもそも漢字の略語があまり思いつかないことに気づいた。重文(重要文化財)や全中(全国中学校体育大会)くらいであろうか。そもそも漢字及び熟語は略語的な機能があるため、さらに縮める必要性が薄いのであろう。死語になりつつあるが、携帯電話を略す時は、ケータイとカタカナ表記が頭に思い浮かぶ。これも本来の機能を表す意味が失われていると数年前であれば批判できたが、今日のケータイ(スマホ)は電話としての登場機会は少なく、"とりあえず携帯して色々するもの"になっている。

初見で最も意味が分からないのはアルファベットの略語だろう。ASAP, FYI等々乱用されているが初めて見るものはいちいち調べなければならず、類推というものができない。私の会社は現在勤務形態にWFH(working from home)を採用しているが、なんのことやらである。在宅勤務を略して在宅と言った方が、伝わる情報量は格段に増えるだろう。勤務しているかどうかは不明だが。

感情の名前

感情的な人がいたりする。対義語は論理的だ。論理は目に見える。言葉で説明することができるからだ。(体現するのに言葉などの記号が必要なことが論理の特徴でもある。)

一方、感情とはなかなか目に見えない。他者の中にそれらしきものがあるように観察できるが、断定はできない。脳波の波形を見せられても、はぁ、としか言えない。又、自分の感情というものもなかなか分からない。複雑なものである。楽しい、と言葉に出した時、私は楽しさらしきものを感じた自分を客観的に観察し、これは楽しいと言う状態に自分はいるなと判断して、最終的に言葉にしているのである。つねに感覚と観察の結果選ばれた言葉のニュアンスには乖離が生じる。

感情は本来複雑なものである。子どもの感情を大人が理解できないのは、子どもの複雑性を理解できていないからだ。それを、大人が子どもに、「楽しいですか?」などと要らぬ補助線を引きながら会話することで、感情の複雑さを捨てる方向に子どもは育っていくのではないかと考えている。逆に、成熟した大人というものは悲しい時に笑ったり、怒った時に冷静になれたり、複雑さを兼ね備えていることが多いように思われる。

感情を表す単純な言葉は短慮にも思えるが、その一般性が効果的である場面もある。上田正樹の悲しい色やねは傑作である。悲しい気持ちを詳述することなく、大阪の海の色に預けた発想には感嘆させられる。エメラルドブルーの海を見て育った人には書けない歌詞である。

目を奪われるって言うけれど

オリンピック、パラリンピック、甲子園とスポーツイベントが立て続いている。バスケットボール以外に興味は無いのだが、テレビをつけると自然と関連のニュースが目に飛び込んでくる。

そんな中よく使われているフレーズに"目を奪われるプレー"がある。辞書には「目を盗られて何も見えない意で、あまりの美しさなどに見とれて夢中になること」とある。あること以外に盲目になることを言うようだ。私はずっと、視界をあることに独占されることだと思っていた。何故ならば、慣用句に使われる目は眼球ではなく、視線/視界の意味で使われることが多いからだ。目が離せない、注目や着目などがそうだ。上で使った、"目に飛び込んでくる"も正しくは視界に現れるである。視覚からの情報は視神経を走るただの信号だが、感覚として虫取りシートのような粘着性があるのであろう。

五感の中で視覚と同じく常に情報を受け取るのが聴覚であるが、同じような表現はないように思われる。音は過ぎ去り、選ぶことが難しいからだろう。耳を奪われるという表現はない。耳を奪われた琵琶法師ならいたが。