自然に還るとは?

東京の23区内でもたまに廃墟を目にすることがある。田舎ではあるまいし、じきに再開発に着手されるのだろうと考えるが、草木が生い茂っている場合は、久しく書いてがついていないことから土地の価値を訝ってしまう。尤も、草木は想定以上に成長が早いことが常であるから一概には言えないが。

放置された土地が緑に覆われていくことを、自然に還るということがある。人工物がそれ以外かの二元論に基づいた表現だ。更に言うと、現役で人に利用されている人工物か、それ以外だ。人の営みは自然では無いのだろうか?例えば子どもの誕生は人の営みによるものだ。この場合は、現象は自然のものと考えられるが、その後の子供が為す一切は人工となる。それとも本能に従った反応の結果は自然?ただ、理性と反応は明確に切り分けられないため、人工も自然もなくなる。

人が死ぬことを自然に還るとも言う。その場合、火葬前の遺体は自然に還る前?

目に見えない線が世の中にはたくさんある

スパイ映画によく出てくる赤外線センサトラップのことではない。因みに、よく出てくるとは書いたが、実際はバラエティ番組以外では見たことがない。

梅雨前線や寒冷前線が代表例としてある。前線とは、2つの気団が接触したときに生ずる不連続面が地上と交わる線のことを指す気象用語であるが、実地にいたとしても視覚や触覚で感知できる類のものでは無い。そもそも、詳しいことは分からないが、気団もどれほど感知出来るか不明だ。ただの自然現象を人間が観察し、定義して分類した結果、出現してきたラインである。

国境も目に見えない。現在の主権国家が誕生する以前から存在したが、その時はラインとしてどこまで明瞭に引かれていたか不明だ。しかし、前線と同じく、実際に明確か否かはさておき確実に人々の意識の中に存在したことは間違いない。領海という概念が成立する以前は、日本人は日本国の領域をどのように捉えていたか、気になるところだ。

体の内側外側は線引きがコロコロ変わる。例えば、口の中は体の中だろうか、外だろうか。口に入れてからの時間や処理、状態に左右されそうだ。服を着た時の肌とTシャツの間の空間は内側と言えないだろうか?脳の演算/記憶機能を補完している自宅のPCとそのICは必ずしも体の外側と言えるだろうか?

線引きは人間の意識によってなされるが、少なくとも私の意識は明確な線を引くには心許ない揺れ方をしている。

日向ぼっこのぼっことは

日光浴の本質は日光にあたることではなく、外にいるのに何もせず時間を浪費することにあるのではないか。そんなことを考えていると、日向ぼっこのぼっことは何だと疑問に思った。

ぼっこなどという音は他では聞かないが、惚け居り(ほうけおり)が縮まって、ぼっこになったという。なるほど、日向の下で惚けていることが大切なのだ。集中して何かを考えたり計算していたら、日向ぼっこにはならない。惚けていて初めて日向ぼっこなのだ。

さて、〇〇浴はだいたいぼっこだ。外気浴しかり、海水浴しかり。滝行は激しい滝に打たれながら己を鍛える修行だが、滝浴みは納涼しながら惚けている。

一つだけ不満なことは、岩盤浴は何も浴びていないということくらいだ。

寂しがり屋ほど議論が好きなのか

なんらかの意思決定のための建設的な議論という意味ではなく、単に主張と反論の声が大きいという意味だ。自分の考えに自信がない人ほど、他者にそれを聞いてもらい、リアクションを伺うことで安心しようとする。自信の程を誇示しているのではなく、大きな声をあげないと保たないほど自信がないのだろう。

反論についてもしかりだ。自分の意見や感覚に共感者が少ないと、どうしても寂しさを感じる。だからこそ仲間を増やしたい一心で声を荒げる。気持ちは分かるが、周りからは更に浮く結果となる。

私もよく、好きな本や映画、音楽を人に勧めたくなる。その人が私と同様に気にいるか、確かめたくて仕方ないのだろう。大抵、満足のいくフィードバックは得られず終わる。なかなか学ばないものである。

熱烈なファンによって対象の評判が下がる現象をよく見かける

YouTubeのコメント欄やTwitterのリプライの中でしばしば、ファン同士の言い争いや、AのファンとBのファンの間での諍いを見かける。そんなものを見ると、応援されている対象のことも遠ざけておこう、とつい考えてしまう。

自分が応援しているもののことを"正しく"理解して欲しいという感覚が無益な争いを生んでいるのだろう。だから、他の意見を説得したくなる。説得なんてされたくない人からすれば、ただただ不愉快なだけだ。そもそも、正しい理解/評価など誰にも出来ないだろう。過大評価、過小評価という言葉は気軽に使われすぎだ。

又、SNSレベルの議論の場で誰かを説得できると考えるのもよしたほうがいいだろう。せいぜい出来て、浅い共感程度だ。

インターネットの登場によって、同じものを好きな仲間を見つけることが簡単になった。孤独を感じなくて済むのは喜ばしいことだが、好きなものへの愛も、嫌いなものへの怒りも、多くは自分の胸の内に秘めておくべきだろう。

 

何をもって洗練された街と言うか?

東南アジア地域に初めて行った時、大通りから一本入った道の電線のごちゃつきっぷりに圧倒されたことをよく覚えている。発展途上国らしさのようなものを強く感じたからだ。

今私は、首都圏郊外に住んでいる。片田舎というほどでもないが、地方都市とはいえない。それなりに栄えている駅から5駅隣くらいだ。そんな私の居住地で、散歩をしていると、東南アジアの住宅街顔負けの混雑した電線をたまに見かける。ここは本当に日本か?と目を疑いたくなるほどだ。

タイトルに戻る。洗練された街/街並みという言葉をよく聞くが、具体的にはどのような場所を指すのだろうか?景観が綺麗だが華美でなく、悪臭がなく、大気汚染もない、紳士淑女に溢れる場所だろうか。洒落た喫茶店でまれに実現されることはあっても、私の知る限り、街単位でそのような理想的な場所は存在していない。

又、人口や経済規模は関係あるのだろうか?中庸が良いのだろうとは思うが、何をもって適度とするかは分からない。市民生活は洗練と対極にあるのか、洗練された生活の実践が、洗練された街を形成するのか。(書いていて意味がわからない。)

又、未来へ進むごとに人工都市は洗練に近づいていくのだろうか?簡素を洗練と捉えるかどうかで評価は分かれそうだ。

どうやら、洗練を目指す街が各地に点在しているだけのような気がしてくる。そしてそもそも、洗練された街並みが誰かに本当に必要とされているのか、その主体が甚だ疑問だ。だからなかなか洗練されていかないのかもしれない。

夢のストーリーがドタバタなのは、出演者が雑多だからなのか

平野啓一郎氏は分人という言葉を作った。曰く、個人の中にも様々な顔があり、それらは共にいる人やコミュニティ、環境によって自然に変わる。その総体が個人なのだとか。

夢の舞台設定と登場人物は、脳の記憶の中から勝手に抽出される。だから、学生時代の友人と、職場の上司が同じ場に当たり前のようにいたりする。そして、私も当たり前のように会話を進めていたりする。その場で顔を出している私の分人は、現実に存在しないものであり、無理矢理作り出された、内部に歪を抱えている。目覚めた時に、自分でも不思議に思う夢の中での自分の行動は、その歪に一因があるのではなかろうか。